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「いいから、余計なことを考えるのはやめて、今は過去も未来も何もかも忘れてこの瞬間だけをただ楽しもうよ」って言いたくなる時がある。

それは決まって特別な誰かといる時で、何かを決めなければならない時で、何かと対峙している時。逃げるわけでも隠れるわけでもないのだけれど、そうやって息抜きのような時間を少し過ごさないと上手くやり過ごせない気がしてしまう。何もかもはきちんと訪れてしまうしそんな事は百も承知だからたった少しだけ忘れさせてくれよって懇願のようなもの。そうやって少しの逃避行をしたらきちんとまた戻ってきて現実を生きるから許してよ、って。好きになるなら、こんな提案にいいよって乗ってくれる人がいいなとふと思った。そしてまたきちんと足並みを揃えて現実に一緒に戻ってくれる人がいい。さあ、始めよう、ときちんと共に寄り添ってくれたならもう満点だ。

 

西加奈子の「円卓」を読了。彼女の書く人間は本当に不器用で愛らしくて素直でたまらなく好きだ。

 

この所、それこそ頭の中を余計なことが駆け巡っていて少々疲れている。眠っていても夢を見ていない。基本的に夢を見るのが当たり前のような眠りの浅さだから、夢を見ないというのがとても貴重で。けれどそれだけ頭の中が騒がしいのだと思う。何がどうってわけではないのだけれど、いや、正しくはきちんと思い悩んでいる事はあるのだけれど考えても致し方ないことをただひたすらこねくり回している状態で、要は精神的不衛生な時間を過ごしているだけなのだ。考えなくていいこと、考えてはいけないこと、考えるには早いこと、という種類がきちんとあるのに私は上手くラベリングが出来ないらしい。あれもこれも取り出して頭を傾げて唸っているのだから馬鹿なのだろう。

生きていると考えるだけ無駄だなっていうことが多すぎると思う。考えたところでどうにもならないこと、どうしようもないことの連続で日々は構築されている。けれど、そこで思考を放棄したら人間として負けのような気がして考えるのだけれどやっぱりよく考えると健康的にも程よく考えないというのも大事だよなと歳を重ねるごとに痛感する。十代の頃は身に起きた全てに五感全てを尖らせてあれこれと反応できたのだけれど、そんな余裕が年々なくなっていく。十代の頃は身を置いている世界も反応できるだけの大きさで構築されていたけれど、大人になるにつれて身を置く世界も広がってしまうからあれこれと感情を拾っていると追いつかない。それに感度が明らかに鈍ってきたこともひしひしと感じる。だからと言って生きやすくなったかと聞かれたら全くそんな事はなく相変わらず生きづらいというか窒息しそうなのは変わらないのだけれど鈍感になっている事は確か。

 

私の声を聞いていると眠くなるという人が一定数いて。電話越しに眠られたりということが珍しくないのだけれど私にもそういう人が欲しいなぁ。この人の声を聞いていると不思議と確実に眠くなってしまうんだよねっていう声が欲しい。人の声を聞きながら微睡みに落ちて眠れたら最高に幸せだろう。そんなこんなで私は今夜も眠れないままこの夜をどう過ごしたら良いかひたすら考えている。私には眠らせてくれる人がいないから、今夜も私を持て余している。

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