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執筆畑にはいない友人から「貴女の書くものが読みたい」と言われてとても嬉しかった夜中。昨日のブログ最後に登場した友人。彼女は華道のプロフェッショナルで、水泳の先生ができたりもして、作りたいと思うものは何でも作ってみるガッツのある才能肌の人間。私がずっとずっと尊敬している人。そんな友人に、「書いたものがまた読みたいよ」と言われるのは本当に嬉しいことで。

それをツイッターに載せたら他の人からも書いてよ、と言葉を貰えて、ああ今まで私が書いてきたものを読んでくれていた人たちがちゃんと居たんだなぁってとても嬉しくなった。書くという行為はとても孤独で、読み手がいなければ何一つ成立しない世界だから何とか誰かに託したいと書くのだけれど、いざじゃあ誰が受け取っているかって見えなくて。私は勇気がないので反応を探ることすらせずにただただ書き続けていた。でも、周りに居たんですね。こんな身近に友人だからではなく素直に書いたものを評価してくれる人が居たんだなぁと心から驚いたと同時に有り難くなった。

 

短編でもエッセイでも私は嘘が書けないからどうしても登場する人間が自分の中にいる人格に似てしまったりする。全て丸々ではないのだけれど、特徴的な部分は完全に自分そのものだなぁと。これは創作する人間としては想像力が足りてないということなのかもしれないけれど、どうしても1から100まで違う人間を書けと言われても書けない。創作の中に自分の血や肉を付随させたいのだと思う。文字にきちんと鼓動を与えて、生きて欲しいと思ってしまう。私の中身を削ってでも、文章に対しては生命を植えつけたい。私はきっと本来書くことに向いてないのかもしれないね。けどね、これしか長年やってきてないんだ。

 

昨日友人と会話していて、「人間になりきれない」という面白い言葉が出た。一般社会で当たり前のように生きている人は「人間になりきれた」人種で、なりきれなかった人間が芸術面で呼吸をするのではなかろうかと。なるほどなぁと思いながら話を聞いた。そんな友人と私は完全に「なりきれなかった」側の人間。何とか日々の中で人間という形を維持しようとするのだけれど、何処かでボロが出てしまっている。朝は人間らしいのに夜に向けて段々と四足歩行になっていくような。人前ではそれはそれは人間らしく振る舞うのだけれど、疲れてくると本性が出ちゃう。現代人になりきれなかった私達は古来の人間に思いを馳せて、八百万の神に感謝して生きてきた人々に共感をしてしまうのだった。そんな彼女には日本という狭苦しい所なんかじゃなく、世界で大きく活躍して欲しいなと思うし、それが出来る人間だろうと思う。彼女の生命力は、数百年と生きてきた大木に似ている。目に見える全てを吸収して、全てを昇華してほしい。

 

話変わってここ最近、やけに東京に来ないかと誘われている。東京東京東京東京…誰と話しても出てくるので、何だか変な縁が出来てしまっているなと思う。私の中で東京は街というよりも、一つの生命体だ。千と千尋の神隠しに出てくるカオナシのイメージ。ありとあらゆる物を飲み込んでしまう。東京に遊びにいくと、電飾の眩しさに目がクラクラしてしまうし、電車の車窓から外を眺めているとビルというビルに電気がついていて人間の多さにもクラクラしてしまう。けれどあのあからさまな他者への無関心さと無機質な感じは嫌いではなく、むしろ好き。東京といっても場所によるのだけれどね。しかしこの歳になってこんなにも東京に縁が出来るかね、と少々笑えてしまう。

 

ここ数日雷がひどい。雪雷だ。雪が降りだす前は雷がよく落ちる。あっという間に辺り一面真っ白に覆われてしまう。空は灰色に覆われてしまう。東京は人が住む所じゃないとよく聞くけれど、私の住む地元こそ人が住む場所ではないなと思う。こんなところにいては、心が折れてしまうよ。人間は太陽がないと駄目だ。もういっそ、太平洋側に移り住んでしまおうかとも思うほどに。晴れの冬を味わってみたい。きっと私は活き活きと冬を笑って過ごせるようになる気がする。

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